HOME > 初めての方へ > 心の花束 > 二羽のすずめ
 

二羽のすずめ

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、 地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
(聖書 マタイによる福音書10章29-31節 )

私がアメリカの神学校に留学していた、昔の話です。週末には寮のカフェテリアが閉まるので、外食しなければなりません。 そんな時は、よく安いマクドナルドの店に食べに行きました。 ハンバーガーなどを受け取り、屋外のテーブルで食べ始めると、気持ちの良い風と共に雀がたくさん集まっていました。 「まったく、日本で見かける雀と同じ!」と、感心したものでした。

雀といえば、まだ小さい頃に、兄に連れられて空気銃で撃ちに行きました。時に一発の鉛玉で二羽が落ち、 快哉を叫んだものですが、今から思えば、ずいぶん可哀想なことをしたものでした。

聖書の世界であるパレスチナにも雀が広く生息しているそうです。「1アサリオン」というのは、 ローマの青銅貨で、百円くらいでしょうか。

イエスはありふれた、価値の乏しい存在である雀を取り上げて、神様の愛を説かれました。 鶴や孔雀のような美しい鳥ではなく、鷲のような強い鳥でもない。安くて、とるに足りない雀をとりあげて話されました。

「一羽の雀さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」と言われているのです。

この雀は、主イエスにとって一つの例(たとえ)にすぎません。むしろ主イエスの関心は、 「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」と言われるように、われわれ一人一人に向けられ、 神様の慈愛がいかに深いかを示そうとされているのです。

 

「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。 今日は生えていて、明日炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」と。 (聖書 マタイによる福音書6章29-30節 )

私たちの常として、目立ちたいと思います。目立つことで自分の存在を確認したいという気持ちが働くのでしょう。
また、一方で、自分のようなつまらない者には誰も注目してくれないと嘆いたり、悲しんだりするものです。 しかし聖書で主イエスは、「つまらないもの」と嘆いている、その自分にも神様の眼差しが注がれているとおっしゃっています。 そのことに気づく人はどれほど幸いでしょうか。

また、主イエスは、人間の存在の根拠が、その人の才能や容姿、財産の多寡にあるのではなく、 天の父なる神様の慈愛の中にあることを、一羽の雀を通して示されたのです。
野の一輪の草花を通して示されているのです。人間が生きていく中では、いろいろな悩みや苦しみがついてまわるものです。 しかし、よく考えてみると、人間の存在根拠と関係のないことで悩んだり苦しんだりしてしてはいないでしょうか。
今一度、イエスの眼差しがどこに注がれているかを確かめてみてはいかがでしょうか。一羽の雀に注がれた主の眼差しが、 自分にとっても深い意味のあることを静かに思い、神様の愛がこの自分に注がれていることを知ってほしいと願うのです。