今日は、最初に映像を見ていただきたいと思います。「幸せな少女が戦争により1年で逆転していしまう」という動画です。家族と友だちに囲まれ、無邪気に楽しい時間を過ごす少女。その背後で流れるニュースでは戦闘がすでに始まっている様子が伺えます。やがて、少女の住む地域にも戦闘機が飛び、爆弾が落とされる。その中で少女がどのように変わっていくか。どうぞご覧ください。
誕生日のお祝いの言葉に囲まれながら嬉しそうにロウソクの火を吹き消した少女が、戦乱をくぐり抜けやがて迎えた誕生日、もはや笑顔はなくロウソクの火を噴きそうともしません。
私は、この映像を初めて見た時、とてもショックで涙が止まりませんでした。ところで、なぜ今日、この映像を見ていただいたか。その理由は、今日の聖書に登場するトマスにあります。
トマス以外の弟子たちが「復活の主イエスを見たぞ」と言ったのを聞いた時のトマスの言葉を皆さんはどう感じますでしょうか。「俺は、彼の両手に釘の痕を見て、自分の指をその釘跡の中に突っ込み、俺のこの手を彼のわき腹の中に突っ込んででもみん限り、そんなこと絶対信じられへん」という、トマスのこの言葉に私はいつもぞっとします。
イエスが十字架に釘で手を打ち付けられた時の全身を貫く激痛を思うと、そこに指を突っ込むなんてことを口にしたトマスに冷酷さを感じてしまいました。十字架上でイエスが本当に死んだかどうか、確かめるために1人の兵士が槍でわき腹を刺すと、血と水が流れ出たと記されています。そのわき腹の中に手を突っ込むなんてことをトマスはなぜ口にしたのか。
トマスが合理的な考え方の持ち主で疑い深いとよく説明されるのですが、それだけではトマスのこの冷酷さ、残酷な言葉を口にした説明にはならないと思います。トマスも弟子の1人として、他の弟子たちと共にイエスの活動に参加し、その語られる言葉を心に刻みながら過ごしてきたはずです。それなのに、なぜ、、、、、、、
それが、ずっと疑問でした。トマスは、元々そんなにも冷淡だったのか。もしかしたら、そうだったかもしれません。しかし、ただそれだけなのか。そんなことを思い巡らす中で、冒頭で見ていただいた映像を思いだしたのです。
無邪気で明るかった少女が、戦闘の恐怖と不安の中で表情を失っていきました。今も世界のどこかで明日をも知れない恐怖の中をくぐり抜けて生きている子どもたちが、笑顔を失い、目の輝きを失っていきます。
目の前で繰り広げられる人々の無惨な死が、子どもの心の光を暗く覆ってしまい、温もりを消していってしまう。それは、トマスも同じだったのではないか。共に歩んできた主イエスの十字架の死の衝撃はトマスの心に深い傷を残しました。
イエスによって、どれほど多くの人々が慰められ、癒され、そして励まされてきたとか。人々は、イエスに対して大きな期待を寄せていたのではなかったのか。これらのことは、トマスの喜びであり、誇りであったはずです。そうであるにも関わらず、それらの人々の手によってイエスは十字架にかけられ処刑されてしまいました。
イエスと共に歩む中、人々に深く心を寄せて生きてきたトマスのすべてが、イエスの十字架の死と共にガラスが砕け散るように壊れてしまったのではないか。トマスは、もはや温もりのある言葉を口にしません。それどころか、イエスの手の釘の穴に指を突っ込んでみなければ、わき腹に手を突っ込んでみないと、信じられと言い放ったのです。喜びに満ちて復活の主を見たと口にする他の弟子たちの脳天気さがなぜか許せなかったのではないか。トマスの言葉の冷淡さは、トマスの受けた心の傷を物語っているように感じられるのです。
私たちに人間は、そもそも1人では生きられない存在です。誰かと共に命を分かち合って生きることが喜びであって、人との関係に心を閉ざして生きること、それは生きていながら死の闇を背負うことであります。
しかし、同時に人は、誰かと共に生きる中で心を傷つけられ、苦しみを味わう存在でもあります。戦争、差別、裏切り、疑い、怒り、不正、偽り、ねたみ。どれだけ、私たちは互いに傷つけあい、互いを排除しあっていることでしょうか。そして、どれだけ私たちは傷を負いながら生きていくのでしょうか。それでも、私たちは1人では生きていけないのです。ただ、不幸にも深い傷を負った時、もうそれ以上傷つかないようにと、誰かと共にいながらも心を閉ざしてしまうのです。
トマスも、他の弟子たちも、ユダヤ人たちを恐れ、戸の鍵をすべてかけて、家の中に閉じこもっていました。その弟子たちの中で、トマスは更に心を閉ざして、孤立していたのです。
戸にはみな鍵をかけた閉ざされた家の中、弟子たちのいるその真ん中にイエスが立たれました。それはまた、もう傷つきたくないと閉ざした彼らの心の真ん中にイエスが立たれたということでもあります。
そして、トマスに語りかけられました。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。」傷口を開くようなトマスの語った言葉。それを、イエスは受け止められました。冷淡な言葉を口にするほどに深く傷ついたトマスをそのまま包んでくださいました。
弟子たちの中でも1人心を閉ざしていたトマスの、その心の中に温かく語りかけられました。そのままのトマスでいいから私の元に近づきなさい。あなたと共にいよう、とイエスはトマスを包むように語りかけられたのです。
「すべてに心を閉ざして、生きながら死の闇を抱えて生きるような、信じない者ではなく、死からのよみがえりをもたらす命の神の導きを信じて、共に生きる者になりなさい。」
心の傷の痛みの底にまで染み渡るイエスの愛に触れ、トマスは応えずにはいられませんでした、「わたしの主よ、わたしの神よ」
「復活の主を見たんだ」という弟子たちの言葉に対して、そんなこと信じられるわけがないと言っていたトマス。わたしが、手の釘のあとに指を突っ込み、わき腹の傷に手を突っ込んで確かめない限り信じないと言ってたトマス。誰かの呼びかけに応えて対話しつつ生きるということに心を閉ざし、私が確認できることしか、私は信じないと孤立していたトマスの心の奥深くに、イエスは直接語りかけてくださった。
もはや、トマスはイエスの手の釘のあとに指をつっこむことも、わき腹の傷に手を入れることもせず、つまりトマスが確認するということは一切しないまま、「わたしの主よ、わたしの神よ」と応える者に変えられていました。
他の弟子たちの「わたしは主を見た」との言葉には心を閉ざしていたトマスを、そのまま受け入れてくださる主イエスの語りかけによってトマスの心は開かれていったのです。
以上のことは、次のように言い換えることもできるのではないかと思います。トマスに語りかけた他の弟子たちの「わたしは主を見た」との証し、証言。そこに、復活の主イエスが伴ってくださり、イエス自身がトマスの閉ざした心の真ん中に立ってくださった。弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と約束されたイエスは、このようにして弟子たちに伴ってくださる。
傷つき、心を閉ざしている者への「私たちは復活の主によって力づけられ、新しく生かされている」という語りかけと共に、主イエスご自身が働きかけてくださる。絶望の淵に立たされ、冷淡さを装って人を寄せ付けず、心を閉ざすことで、もうこれ以上傷つきたくないと、実は悲鳴を上げている者にイエスが伴ってくださる。十字架で処刑された主イエスが死から復活の命に生きて働いてくださる事に信頼して、私たちが心閉ざす者に寄り添い、共にいる時、そこに、イエスは伴ってくださるのです。
そして、かたく心を閉ざし、人との繋がりに入っていけず、辛く、痛みを抱えている者の心の真ん中に立ってくださるのです。そして、温かく包んで癒し、「すべてに心を閉ざして生きながら死の闇を抱えて生きるような信じない者ではなく、死からのよみがえりをもたらす命の神の導きを信じて、共に生きる者になりなさい」と呼びかけてくださるのです。
この主イエスの呼びかけに「わたしの主よ、わたしの神よ」と応え命を受ける者となるよう導いてくださるのです。
死から復活の命に導かれたトマスも、やがてこの福音を携え、遠くインドにまで渡ったと伝えられています。わたしたちも、主ご自身が復活の信仰へと導いてくださることを信頼し、傷つき、苦しむ者に寄り添い、共に生きる者となることができるよう、神様の導きを祈りたいと思います。