今日、私たちが式文を用いて祈る言葉の中に多くの具体的なメッセージが込められています。これらを、わたしたちの少なくともうめきとすることができるかどうかが問われています。
ヨエルが語る荒廃が広がる不安をわたしたちは抱えています。ヨエル書1章2~4節、17~20節。
いにしえの預言者たちが、神の警告を語り伝えはしましたが、当時の支配者たちはこれを他愛もないことと無視し、あるいは嫌悪をもって拒絶し、誤った道を歩み続けたのです。
そして主イエスは、人々の欲望が渦巻く社会の中で神の言葉を、それまでになく明確に語り伝えました。時の権力者たちはこのイエスを拒絶しました。民衆も結局は迎合していきました。
イエスは十字架にかけられ処刑されました。しかし、このようにしてイエスを亡き者にしようとして人間の思いを超えて、神はこの主イエスを復活させられました。イエスを拒否した人間に対して、神はこのようにして応えられました。
人間の拒絶をものみ込み、包み込んでいく新しい命への導きを示されたのです。全き絶望が色濃く支配するその闇を引き裂いて神の命へ誘う光が差し入れられたのです。
私たち人間は、神様の創造された世界、命の祝福された世界に混乱をもたらしました。それが聖書の創造物語りの語る世界観です。神が禁じられた善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。これを食べると「神のように善悪を知る者となる」、そのことを人間は強く求めているのです。
この世界の善から悪まで、端から端まで神のように知る者となること、神のようにすべてを掌握し、牛耳ることを人間は強く求めるのです。昨日知ったのですが、日本で牛にほうれん草の遺伝子を組み込む実験が行われたことがあるそうです。牛肉ばかり食べると体に良くないので、ほうれん草の栄養分も補えるように考えた結果だということです。結局、あまり注目されることなく、これは取りやめになったというのです。わたしたち人間は、宇宙に対して、深海の世界も、そして遺伝子も分子のレベルまで探求しようとする、飽くなき好奇心があります。
しかし、人間には限界があります。矛盾も抱えています。誤りも犯します。そんな人間がすべてを掌握するならば、かならず問題を孕むことになります。神に禁じられたこの善悪の知識の木の実をとって食べてしまった人間は、神との関係に亀裂を生じ、人間同士の関係にも、そして自然との関係にも亀裂が生じることとなったと聖書は語ります。
しかし、人間の犯した罪の贖いがイエスによって実現した。そして、人間の贖いと共に自然が贖われることを待ち望んでいる。私たち人間に与えられる主イエスの贖いは、同様にすべての被造物の贖いとなるのです。
今、私たちは問いの前に立たされています。色鮮やかにくり広げられる工業開発と便利さを追求する生活の超特急に乗り込んで、荒廃という終着駅へと向かうのか。それとも穏やかで、多様な命の息づく持続していく生活に帰って行くのか。
経済と文化と政治が複雑に絡み合う社会の中で、どのようにすれば良いのか、戸惑いを感じる私たちです。
しかし、私たちは希望の民として、落胆したり、諦めたりしていたくはありません。「被造物は、神の子たちの顕れるのを切に」待ち望んでいるのです。主イエスの贖いに与る望みに生きる私たちは、共に全ての被造物の自由がもたらされることを祈り求めたいと思います。
この式文の祈りとしてささげられる言葉に触れる度に、私たちの命に触れる心が嘆いているのを感じます。私たちが言葉にまで引き上げることができないで、胸に秘めたままにしている嘆きに、神は耳を傾けてくださいます。
この神に信頼し、私たちは被造物の呻きに渡したいの呻きを重ねたいと思います。そして、私たちがすべての被造物と共に分かち合う時を待ち望みつつ、今の生活がこれにふさわしく変えられていくことを求め続けたいと思います。
大地よ、恐れるな、喜び踊れ。 主は偉大な御業を成し遂げられた。
野の獣よ、恐れるな。 荒れ野の草地は緑となり 木の実を結び
いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。