昨日、地下鉄のプラットホームで中日新聞の掲載記事を示す大変ショッキングな内容のテロップが流されていました。愛知教育大学で10数年に渡って続けられていた「平和と人権」の講座が削除されたというのです。そして、その理由が社会の要請に応えてというような内容です。平和も人権も、人の命の尊さを重んじるためになくてはならないものです。
今や、日本の社会は、人の命を後回しにするほどに冷酷な社会になってしまったのでしょうか。確かに、安倍内閣が推し進める政策のどれもが、命を軽視しているとしか思えない内容です。
1人ひとりの命を軽んじること、それは暴力としか言いようがありません。実は今日の聖書の箇所は暴力に曝されている人々にあてて書かれた手紙の一部です。その聖書を思い巡らしていた時だったので、余計にこのテロップは強く響きました。
この手紙で暴力というのは、迫害のことです。イエス・キリストの福音を信じて生きている事を理由に迫害の嵐の中に置かれた人々を励まそうとしているのです。
「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように。」
暴力に曝された人は自信を失い生きる気力を削がれてしまいます。学校でいじめられた子どもが自ら命を絶つ痛ましい事件が報じられることがあります。いじめられている被害者が、自分は生きている価値がないと思い詰めてしまうのです。なんと理不尽なことでしょうか。
暴力の持つ怖さは、この点にあります。身体的な傷は勿論ですが、心に深い傷を負ってしまうのです。暴力の被害者が、自分は価値がないかのように感じてしまう。その心の傷はなかなか治りにくいのです。身体の傷は治っても、心の傷はなお残り続けてしまうのです。
迫害に苦しみ、自分は価値がないかのように感じている人たちに手紙の著者は、イエス・キリストのことを思い起こさせます。「ご自分に対する罪人たちのこのような反抗に忍耐された方のことを、よく考えなさい。」イエス・キリストは十字架に掛けられ、人々のさらし者となって処刑された。あなた方が経験している迫害以上の暴力に曝された。そしてさらし者の恥を負わせられた。
しかし、この方こそが尊い存在とされているではないか。神の玉座の右にお座りになったのです。そうであるならば、あなたがたも迫害の中で、自分が価値がないなどと思わないようにしてほしい。気力失い疲れ果ててしまわないように。
暴力にさらされ、自信を失った時、私たちは、暴力をふるう者たちの意向に沿うように行動しようとする傾向があります。迫害のもとでは、迫害する者たちに抵抗しながらも、同時に迫害する者の意向に応えようとするのです。
日本の教会が、歴史の中で犯した罪はまさにこのようにして起こりました。アジア太平洋戦争の中、敵の宗教としてキリスト教は敵視されます。キリスト教学校に通う生徒も石を投げられたりします。礼拝には、警察が後に立ち説教の内容をチェックします。その中でホーリネス教会のグループが目を付けられ、牧師や役員たちが投獄されていきました。その方たちの中には取り調べの拷問で獄死された方や、解放されても重い後遺症に苦しんだ方が多くおられます。
このような弾圧の下、一部の教会を除いて殆どの教会が日本の戦争に協力していくことになります。献金を募って戦闘機を国に献げました。また神社は宗教ではなく、日本の伝統的な文化だから神社参拝は問題ないと、植民地となっていた朝鮮の教会に神社参拝するよう呼びかける書簡を日本基督教団は送っています。教団自らが偶像崇拝を呼びかけたのです。
暴力に曝され自信を失った時、私たちは暴力をふるう者の意向に沿うように行動しようとしてしまうのです。迫害する者の意向に沿うということは信仰の本来あるべき姿からずれてしまうということです。
進べき方向がたった1度角度がずれただけでも、先に進めば進むほど大きくずれてしまいます。本来の信仰から大きく外れてしまう。そのような罪と戦って血を流すまで抵抗したことがあなたがたはないと著者は言います。
ここでいう戦うと表現されているのは、ボクシングの戦いに用いられる言葉です。ボクシングの試合では、血を流すこともあります。それほどに必死で戦うという意味です。私たちが聖書によって示されるイエス・キリストの命の道をどこまで信頼して歩んでいるのか、ここで問われているように感じさせられます。
端的に言えば、私たちが信仰をもって生きるにしても、日本の国で生きているんだから、それらしくうまくやろうよ、と日本の国の流れに迎合していこうとする心の動きはないか。戦時中の教会では、信仰者の多くが不安を抱えていました。国とうまくやっていかないと、弾圧され、教会がつぶされてしまう、と。
教会を守るためには、ある程度の妥協も仕方がないと迎合していきました。しかし、ホーリネス教会のグループが国から目をつけられ弾圧された時、他のグループの教会の多くは、あろうことかこの出来事を突き放して見ていました。「彼らは信仰の内容が我々とは違うのだ」と言って巻き込まれることを恐れました。
ある程度の妥協という、少しの方向のずれのつもりが、深い罪を犯すことになったのです。
戦後、数十年して、日本のそれぞれの教団、教会が罪の告白をしました。日本基督教団は1967年に戦争責任告白を出しています。そしてホーリネス教会の人々を切り捨てた日本基督教団は、1984年に被害者やその遺族を教団総会に招いて、謝罪しています。
迫害の不安の中、弱音をはき迷う者に、手紙の著者はさらに語りかけます。今あなたがたが遭遇しているこの困難は、神様があなたがたを鍛錬しようとしておられるのだと。父親がわが子を愛すればこそ鍛錬するように、霊の父である神があなたがたを愛すればこそ鍛錬しておれるのだ。あなたがたは見捨てられたのではない。むしろ、神に愛されているのだ。
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われる。迫害の困難な状況のその先が全く予測できない。不安と恐怖が心をしばる。妥協し迎合したほうが安全ではないのかと心が迷う。その心の迷いを圧して、ただ神に信頼しキリストの後に従うことが、ただ悲しいことばかりと思われる。
戦時中、京都のある教会は国の意向に抵抗し、信仰の姿勢を貫き、そのため牧師も長老たちも逮捕されてしまいました。教会の土地も会堂も没収され危惧されたように教会が消滅してしまったかに見えました。
しかし、残された教会の信徒たちは、お互いの家を集会のために提供し、密かに礼拝を続けていました。また残された牧師の家族のために食べ物を集めるなどして支え続けました。建物はなくなりましたが、信仰者の交わりとしての教会は存続し続けたのです。
戦後、苦労はありましたが、その教会は再建され、今に至っています。在日大韓基督教会京都教会です。
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になると鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
私たちに求められているのは、ただひたすら神に信頼して生きることです。どんなに困難で辛く思われる中にも、神は必ず導きを与えてくださる。困難に遭遇するのは、神がわたしたちを愛されればこそ。
十字架のイエスを復活させられた神の、その新しい命をもたらす創造の業がわたしたちにおいて成される。
だから萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。神様が支え導いてくださるのだから、そのことを信頼しよう。多くの困難が立ちはだかる今の日本の社会の中で神様の命の道を歩み続けたい。神様が支えてくださるように祈ります。