皆さんは、前に映し出された写真を見てどのような言葉を思い浮かべられるでしょうか?(正面に、黒人と白人が手を取り合う写真が映されている)
平和、友愛、和解、、、、、
この世界に様々な人が、独自の文化、歴史を背負って生きています。その違いが対立をもたらし、人類は紛争の歴史を重ねてもきました。しかし、その中でわたしたちは、平和を強く願い求めています。
イエス・キリストは、わたしたちに真の平和の君として来てくださいました。このイエスの教えに学び、またイエスの活動に参加し、従っていた12人の弟子の1人が、イエスに敵するかのように、イエスの殺害を企てる人々にイエスを売り渡す約束をしてしまうという場面から、今日は始まりました。
イエスの弟子が、なぜこのようなことをしたのか、その理由は一切書かれていません。平和を願い求めて生きるわたしたちの作り出す社会は、その願いとは裏腹な争いばかりをもたらしている現実に重なってきます。
主イエスの動向に詳しい弟子の1人が情報をもたらすというのですから、イエスを捕らえるチャンスをうかがっていた宗教指導者にとっては、好機到来です。その緊迫した空気の中で、イエスとその一行は過ごしています。
今日は、祭りの日でした。除酵祭というのは、そもそもの始まりは大麦の穂が出た頃に、それを神に献納するパレスチナに古くからあった農業の祭りでした。パンを発酵させるために使ってきた古い酵母を始末して新しい酵母を作るため、1週間ほど発酵させずに焼いたパンで過ごします。この祭りが旧約聖書の出エジプトの出来事と結びつけられます。奴隷であった民が解放されるに際して、エジプトから脱出するために残されている時間があまりなく酵母を入れている暇がなかったとされ、奴隷から解放されたことを祝う祭りとなりました。
この祭りは1週間続くのですが、その1日目が過越しの食事をする時でした。これも、エジプトでの奴隷生活から解放されることを祝う祭りの食事です。エルサレム神殿で羊を屠り、その羊を家族で食する行事です。エルサレムの町は、この巡礼者で人口が倍にもなったと言われています。
神の民が救われたことを記念する最大の祭りです。弟子たちは、この食事をどこですればいいのかをイエスに問いかけたのです。「過越しの食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」。
イエスがこれに応えて弟子たちに語られた内容は不思議です。まるでおとぎ話の世界に入ったような内容です。これから起こることをまるで映像を見るかのように説明されます。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う」。当時、水がめで水を運ぶのは女性が一般的でした。男性が水がめを運ぶのは珍しく、目印となるのです。「その人について行きなさい。その人が入って行った家、その家の主に先生が『弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています」と言いなさい。「すると席が整った2階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
2人の弟子が都に行ってみると。すべてイエスが言われた通りに事は進み、都に出て行った弟子たちは、段取り良く準備を行います。
この不思議な情景には、ある象徴的な意味が込められています。弟子のイスカリオテのユダが裏切り、主イエスが捕らえられていく時が迫っています。しかし、それら人間の罪の現実を神はすべて心得ておられ、その罪から解放するために、主イエスを用いておられるのです。人間の裏切りの罪をも用いて、神は人間を救うための機会にされるのです。主イエスは、この神の導きにすべてを委ねて、歩みを進めておられます。神がかつてイスラエルの民にもたらされた救いの壮大な歴史を記念する食事の席、過越しの食事のその場所は、すべての民に与えられる救いを記念する場所として神が用意されるのです。
主イエスが、2人の弟子にこれからたどる行程をまるで映像を見るかの如く予め指示されたのは、それが神が備えられた場所であることを物語っているのです。
夕方になると、イエスは12人と一緒にそこへ行かれます。12人と一緒に食事の席に着かれました。12人と一緒ということは、イエスを裏切り、イエスを殺そうと機会をうかがっている敵に売り渡したイスカリオテのユダもここに同席しているということです。
主イエスは裏切られることを全てご存知のまま、食事の席につかれました。そして言われます。「あなたがたのうちの1人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。
今、イエスの敵と密かに会っきたばかりのイスカリオテのユダは、血の気がひく思いをしたでしょう。しかし、他の弟子たちまでもが「まさか、わたしのことでは」と言い始めます。主イエスに危険が迫っている緊迫した空気を感じながら、弟子の誰もが不安を抱えていたのでしょう。
「12人のうちの1人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。」これを言えば、一目瞭然というわけではありません。1人だけがイエスと一緒に浸しているというわけではないからです。むしろ、鉢に食べ物を一緒に浸すというのは、それほどに親密で信頼関係があるということを表しています。
弟子たちの誰もが、イエスに出会うまでの生活を捨て、イエスと共に3年もの間を旅してきたのです。それほどに親しく、また信頼関係を築いて共に生きてきたのにも関わらず、裏切ろうとしている。
「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれてこなかった方が、その者のためによかった」。イエスは呪いにさえ聞こえる事を語られました。イエスを裏切る罪の重さに対する裁きの厳しさを語られたのだとの解説もあります。しかし、そうなんでしょうか。
イエスは、他の弟子たちの前でユダを名指して、お前が私を裏切ろうとしているとは、最後まで言われませんでした。イエスは、ご自身のたどられる苦難の道をご存知で、それを引き受けておられたということは、2人の弟子に過越しの食事の準備を指示した時との関連で触れました。
イエスは、イスカリオテのユダが、イエスを敵に売り渡したこともご存知でありながら、このように暗に含むようにして、しかし厳しい内容を語られたのです。それは、ユダに対する最後の警告ではないかと思わされます。
イエスに対する信頼と敬愛の情をもって歩んできたユダが祭司長たちと交わした約束、イエスを引き渡すことを、本当に実行したならば、結局はそんな自分を自ら責め、生まれてこなければ良かったと自ら呪うほどに苦しむことになる、と最後の一歩を踏みとどまるようにと語られたのです。警告の言葉の厳しさは、そのままユダに対するイエスの愛の深さを表しているように思われてなりません。
そして、その後、主の晩餐の記事が続きます。イエスの裂かれたパンを弟子たちに与え、また契約の血であるブドウ酒を1つの杯から回し飲みしましたが、そこにもイエスカリオテのユダは招かれているのです。
12人の弟子は誰もが、イエスと出会うまでの生活をすべて捨て、イエスに従い旅に出ました。たとえ、洗礼を受けクリスチャンになったとしても、それほどの徹底した生活の変化を経験する人はそれほどいません。イエスの弟子として、人生のすべてをイエスに献げたユダでさえイエスを裏切るのです。
このことを見ると、イエスの食卓に招かれるに相応しいと自信をもって言える人はいるのだろうかと思わされます。しかし、このユダをさえイエスは食卓に招かれるのです。
主の晩餐は、わたしたちの罪に対する神の赦しの愛と、わたしたちをなお導こうとされる神の意志の表れなのです。共に食すること、それは命を分かち合うことです。この主の晩餐、聖餐に与るとは、神のこの愛にすべてを委ねることです。
今日は、世界聖餐日です。平和の君であるイエス・キリストを迎え、このイエス・キリストの導きを世界に証しする教会は、すべての人が共に生き、命を分かち合う喜びを表さなければなりません。神の愛と導きを身体で受け取り味わうのが、この聖餐です。
ところが、教会が制度を整えるに従って、長い歴史の中で教派に分かれてしまいました。共に命を分かち合う喜びのしるしである聖餐が、その理解をめぐって教会を分裂させるに至りました。日本基督教団に中においてさえそうです。
誰が聖餐に与るにふさわしくないと判定するのでしょうか。イエスカリオテのユダをさえ、イエスは招かれたのです。
わたしたちは、人間の弱さと破れにも関わらず、これほどに愛し、命へと招いてくださる神に感謝し、全てを委ねる者でありたいと願います。
神の前に聖餐に与るに相応しいと自負することのできる者、それこそ偽り者と言わなければなりません。誰もが、神の前に破れを抱えたままであることを謙虚に認め、そのままでわたしたちを招いてくださっている神に生涯を委ねて、新しく歩み出したいと思います。
今日、世界の教会は、このことを記念して、時を同じくして、共に聖餐を守ろうと決めたのです。分裂という現実を抱えた教会も、聖餐に与るに相応しい存在ではありません。しかし、そのままで招いてくださる神の愛に応えてわたしたちは共にこの食卓につくのです。
前の写真に象徴される平和、分かち合いをわたしたちは、今なお実現できていません。その現実の中で、世界聖餐日の教会のこの業がこの平和と分かち合いを願う祈りの姿であります。
神は必ず、導いてくださる、そのことに信頼し支えられて、私たち自身もこの祈りのために努めていきたいと願います。